HSPと非HSPというくくりだけで考えるあやうさについて

HSPは気質です。

HSPの気質が強い結果、その影響で「不調や疲労」が発生することはあっても、HSPの気質そのものが「不調や疲労」を発生させているわけではりません。


たとえば風邪は、鼻やのどがウイルスにより炎症をおこした身体の状態をまとめた呼び名です。
正式名称は風邪症候群といいます。

風邪をひくとは「ウイルスにより炎症した結果」のどが痛い、鼻水やくしゃみがでる、発熱しているということです。
「風邪ウイルス」というウイルスがあって、そのウイルスに感染したから「風邪だ」というわけではありません。

反対にインフルエンザは、「インフルエンザウイルス」に感染しているという原因と症状が断定されたものです。

風邪の原因になるウイルスが体内にはいっても、発症して風邪症状にまでなるかどうかは、そのひとの環境や行動によります。
咳という同じ症状でも、つらさの差は個人によって差があります。


HSPによる不調のしくみも似ているところがあるなぁと思うのです。


HSPという概念が広がることは、大切です。
悩んだり苦しんだりしているひとが自分のことを知り、自分のコントロール方法を見つけられるきっかけになります。

しかし「HSPだから苦しい」「非HSPだからわかってくれない・相容れない」というようなくくりだけでモノゴトを考えだしてしまうと、それはあやういなと感じるのです。

HSPだから苦しい

これは、あくまでいろいろ見てきた自分の感覚なので診断ではありません。と前置きをしつつ。

HSPそのものは気質なので、HSPの特徴が強い人は「一般的な社会生活はおくれるけど、その中でストレスとなる刺激が多い」です。
だから傷つきやすいし、疲れやすいですよね。

だけど「一般的な社会生活をおくることに支障がでるような特徴がある」場合は、ADHDアスペルガーなど「敏感な性質を含む」症状が根本にあるという場合があります。

以前、現役の精神科医の教授とHSPについてお話したときも、HSPの特徴だけみて個人で納得してしまい、ここが見過ごされてしまうことは危惧されていました。

「一般的な社会生活をおくってるけど、なんか周りとかみ合わない」という本人に症状の自覚なく、生きづらさを感じているひとも多いです。
HSPだけにとらわれて、そこの対処だけがんばっても、それではなかなか生きづらさは解消されないです。

だって原因は他にあるのもしれないから。

愛着障害アダルトチルドレンを見過ごさない重要性

また、愛着障害アダルトチルドレン(AC)なども、敏感なHSP気質により影響され、増幅されて苦しいという悪循環は大いにあります。

「他人を信頼したいのに信頼できない」「自分を好きになりたいのになれない」という感情は、「HSPの気質が強いから」おこっているわけではありません。

この場合、「HSPだから苦しい」のではなく、苦しさを与えているのは愛着障害アダルトチルドレン(AC)という「原因」の方ですよね。

「他人を信頼する」「自分を好きになる」という思考は、HSP気質をコントロールするときに、とても大きな役割となります。

だから背景に愛着障害アダルトチルドレン(AC)があるかたは「信頼できない」「好きになれない」自分を責めることなく、適切な医師やカウンセラーの元、まずは愛着障害アダルトチルドレン(AC)からの回復が重要になります。

思考の原因を見誤っては、本来回復できることを見過ごしてしまいます。
HSPの気質はコントロールは必要であれ、治癒や治療という概念はあてはまりません。

HSPという仮想敵

HSPとは、ほとんどの場合「HSPの気質が強くない人」「HSP項目の該当が少ない人」という意味で使われています。

しかし最近「自分を苦しめている人」「自分が苦しい環境を作りだしている人」に対して使用しているのをたまに目にします。

この概念だと、HSPにとって非HSPは悪だという見当違いの構図ができあがりかねません。

それはあまりにも悲しく、意味のないことです。


わたしの周りにいてくれる素敵なひとたちは「HSPの項目にいくつかは該当するけど、影響を受けて不調になることはない」タイプが多いです。
むしろ世の中の大半はそうだと思っています。

このひとたちも分類をするならば非HSPとなります。

つまり、わたしはたくさんの非HSPの方々に支えられ、たすけられ、楽しませてもらっています。

わたしが苦手なことを、あのひとは苦手ではないからたすけてくれる。
あのひとが苦手なことが、わたしは苦手ではないからたすけられる。

それって本来はHSPうんぬん以前の、たいせつな人間関係ですよね。

だからといって自分に苦しさをあたえているひとを受け入れろとか、すぐに許せとか、ましてや我慢しろということではもちろんなくて。
HSPというお面をかぶせるのではなく、原因の顔をしっかり見てほしいです。

顔を認識してからは、そこに立ちむかうのも、そこから逃げるのも、選択は自由。

なにが心配って、非HSPというお面をかぶせてしまうひとは、本当は出会えるはずだったすてきなひと達とすれちがってしまうかもしれない、ということです。

HSPという大きなくくりで相手をみてしまうと、自分を苦しませる種を自分で大きくしてしまう。

わたしはこれからも、HSP・非HSPともに、いろいろなひとに出会っていきたいです。